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常にツイてる [BOOK]

今週のツイてる話。

その1
秋田の銘酒「雪の茅舎」は僕の大好物。
横浜市内の食品スーパーには置いていなくて、会社の帰路か休日に、横浜高島屋で買っています。

今日の午前9時半過ぎ。
近所のスーパーが10時に開くのを待つ間、ふらりと寄ったその近くの成城石井に…、
あるではないですか、
我が愛しの「雪の茅舎」が!!

なんてツイてるんだろう!❢
僕は大感激して、わが幸運に感謝しました。


その2
今週水曜の在宅勤務時のこと。
会社の上層部の人から電話あり、
ある仕事の依頼が入りました。
彼はこう付け加えました。
「君のスケジューラーを見ていると
今日は在宅勤務として書いてないね。
これ、さぼりの日というですか?」

僕は返しました
「いえいえ、今日は午前5時台から
仕事を開始し、あちこちにメールで
お願い事などをしていました。」

「であるなら、それを入力すべきだ」

その刹那、僕はカチンときましたが、
深呼吸をした後、とてつもない感謝が
湧いてきたのです。

僕のスケジューラーをみて
「こいつ、一体、自宅で何やっているのだろう」と思う人は他にも存在するかもしれません。

別に人からどう思われようと職務を全うしていれば良いのですが、それは僕の自己満足。
スケジューラーに、開示出来るレベルのタスク内容やタイトルを記載したほうが、僕の部下たちや社内の他の人たちからの、僕の仕事への理解が広がります。また、僕自身も在宅時の真剣さや集中力が増すので、良いことずくし。

この上層部の一言、僕はなんとツイてるのでしょう。僕は昨日、彼に「ありがとうございました」と伝えました。

その3
日頃殆ど接点のない、社内の50歳の人から昨日、退職の挨拶メールが届きました。

「思えば当社での22年は、苦しく辛いことも多々あったと思うのですが、今、振り返ると、困難を乗り越えた後の喜びしか思い出せません。本当に人に恵まれた歳月でした。50歳になったのを機に、全く違う分野の仕事をしていきます。」

辛く、苦しく、しんどいこともあるけど、必ず、その後に喜びや成長がある。
苦と楽、悲と喜はセットになっている、
いわば「ニコイチ」。

彼とは数年前、ほんの少しだけ会話をした程度の間柄。でもこの会社でのお別れに、
こんな素敵なメールを僕にくれたのです。なんてカッコ良いのでしょう。そしてこれを受けた僕はなんてツイてるのでしょう。

僕らは常にツイてるのだと思います。
日頃身の周りの幸せに気付くかどうかですよね。

様々な哲学書や禅の本、自己啓発本に、「ツイてる」「ありがとう」などのポジティブワードを口癖にすれば幸運が来て、愚痴や悪口などのネガティブワードが多くなれば、悪運を引き寄せてしまうということが書いてありますよね。

これは有りです。僕は本当にそうだと思います。つくづく実体験で身に沁みています。だから、その教えを授けてくださった本に、著者に、深謝しています。そういう本との出会いも、ものすごくツイています。


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本買えば、雪の暮 [BOOK]

去年の暮れからこの2ヶ月で
本を15冊買っていることに
先程気が付きました。
普段は月に5冊程度です。

仕事のため、思考の整理のため、
気づくとネットで、
あるいは書店で衝動買いしました。

この15冊のうち、残念なことに、
小説は1冊もなし。
10冊を読了しましたが、
読み返したくてたまらないほど、
僕にとっての良書ばかりです。
書棚のポジション争いに苦慮しつつ
どこか楽しいのです。

電子書籍の登場から久しいですが
僕は紙に焼いた活字が読みたいのです。

電子書棚の魅力を否定しません。
素早く的確に情報を伝えられる
デジタルの効果はてきめん。
文明の利器です。

そのうえで、僕は、
活字を束ねた本を生で読みたいのです。
そう、生で。
紙の手触りも嬉しく、
ページに指が触れた瞬間、
脳が動き出す感覚があります。
なんか、人間ぽいじゃないですか。

そして、拙宅の書棚に所狭しと
好きな本が並ぶのを眺めるのが、
たまらなく好きです。
暖かな部屋で大好きな本に囲まれ
ひとり静かに本を読む至福。

こんな寒い季節でも
週に一度は必ず書店に行きます。
そして何ヶ月かに一度は
何冊かをまとめ買いし、
帰路は書店の紙袋を手に
どこか心躍る足取りになっています。

「本買へば表紙が匂ふ雪の暮」大野林火

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新書 [BOOK]

この5年くらいでしょうか。
毎朝午前6時の東京駅、山手線のホームで
同じ車両に乗る彼は、いつも新書本を読んでいます。

歳は推定50歳、身長175センチ位、紺のジャンパー、ビジネストートバッグ、面長で、天然パーマの髪の後が少し立ってる。

当然に名前は知らないし、言葉を交わしたこともありません。東京駅のホームから池袋方面の山手線に、単に、同じ電車の同じ車両、同じドアから乗り込むだけ。お互いストレンジャーの間柄です。

彼はいつも先頭で降りたいのか、ドアの真ん前の中央に立ち、読書に没頭しながらも、先頭ポジションを誰にも譲らない気を放っています。そしていつもの駅に到着するなり、物凄い勢いで走り去るのです。午前6時少し過ぎた頃です。何をそんなに急いでいるのか。まあ、人には人の事情とスタイルがありますから、ましてや見知らぬ僕にとやかく言われたくないでしょう。

では、その彼が何なのか。
気になっているのは、彼は常に新書本を読んでいること。タイトルは判然としませんがいつも何かの新書を読んでいます。

僕は想像するのです。
きっと彼の自宅の書棚は新書本がぎっしりずらりと詰め込んであると。

新書本。
これは凄い発明だと思います。僕にとっては昭和歌謡、流行歌のよう。古臭いという意味ではありません。街の本屋さんの店頭では、ずらりと新書の新刊が所狭しと居並んでいます。そして暫くすると、顔ぶれが大きく変わる。要は、かなりの量、相当なスピードで新書は発刊されるわけです。

思えば新書は便利です。
薄くてサイズも丁度よい。鞄に2冊入れても重くないし、1冊読了するのに電車の行き帰りで2日程度。何かのテーマを素早く要点のみ捉えたいと言うならうってつけの長年のメディア。

その彼は店頭の流行りの新書を片っ端から読みあさっている風情。車内でそれに夢中になりながら、それでも僕の視線や周囲の気配も敏感に感じ取り、ときおり目線を泳がせている佇まいが独特。

貴方の趣味は何ですかと訊かれて、「読書です」と答えると、「読書は趣味の範疇ではありません」と返されそうだが、例えば彼に同じ質問をしたなら「新書を年間200冊読むことです」と答えそう。

それはそれで趣味だ。
そんなふうに僕は思うのでした。まあ、そういう質問は決してできないでしょうが。

なんか、彼のそういう徹底ぶりが、「いいな、有りだな」と思う次第であります。また明日彼に会えたら、凝視せずにさり気なく応援の気配を漂わせたいと思います。余計なお世話ですね。


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他力の風に吹かれて [BOOK]

昨日、職場の同僚が定年退職の
最終出勤日だった。
彼の約38年間の会社員人生、
5年間の最終シーズンを
僕は共にしてきた。

彼は出来るビジネスパーソンの
「お手本」のような人で
知識は豊富だし手先も器用。
知的で物静かだが、
自己主張すべきは
論理的に明確に言う彼を
僕は密かに「ミスタークレバー」
と呼んでいた。

定年後は、
サラリーマン人生の第2幕を
探すことから始めるとのこと。
晴耕雨読の、のんびりした日々は不要で、
空白の時間を作りたくないと、
一昨日、彼は僕に言った。

休んでしまうと、
体力と健康、精神の面で
復帰する自信がなくなると。
僕は大きく首を立てに振った。

五木寛之さんは著書
「他力」(幻冬舎文庫)で、
自分は誰かの「手本」にはなれないが
「見本」にはなれると記している。
勿論、謙遜してのことだが、
誰かに慕われ尊敬されることが
目的の人生ではないということ。
「すべての人が
たったひとりしかいない存在」
「この宇宙に
自分はたった一人の存在」だと。

五木さんのこの言葉に
凡人たる僕は励まされる。
「見本」くらいにはなれるかなと。

また、彼は再就職先への懸念は
さほどないと言った。
専門性のある業務を
してきたわけではないから、
つぶしが利かないと。
それでも、飄々とした佇まい。
羨ましく、眩しかった。

五木寛之さんは同著「他力」のなかで
「他力本願」の必要性を説く。
「他力本願とは、安易な他人依存とは、
根本的にちがいます。」

「私たちは見えない明日に、
心の底でおびえている。不安を感じ、
やり場のない嫌悪感にみたされ、
強い焦燥感を抱いて生きている。」

そこで必要なのが他力という奇妙な力。
「すべてが自分の責任と
いうわけではない。
目に見えない大きな力が
私たちを生かし、
思いがけない勇気とファイトを
もたらしてくれるときもある。」

定年を迎えた彼は
前向きで誠実な人。
きっと他力の風が吹くだろう。

僕も僅か数年で
彼と同じ時を迎える。
他力の風が吹くよう、
日々を懸命に生きたい。

ところで気付けば、ブログの掲載が
1,500回をとうに超えていた。
積み上げてきたものがある。
ひとつの「見本」になり得るか。
これもひとえに読者の皆さん、
ブログを運営くださっている方々の
おかげです。
この場をお借りして、
「ありがとうございます。」

今、他力の風を強く感じています。

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ちょっとMyself [BOOK]

「人間というのは
自分のことはわからないんだよ、
あんまり。そのかわり
他人のことはわかるんですよ、
第三者の眼から見てるから。」
「男の作法」(池波正太郎、新潮文庫)

確かに自分の潜在能力などについて
自分ではわからないことは多々ある。
自分ならではの思い込みもあり
客観性に欠けてしまう。

「自分のことは
自分が一番よく分かってるから
放っておいて頂戴!」などとも言う。
自分の抱える事情を
人様は知る由もないだろうから
余計な事は言わないでくれと。

どちらも真実、ある意味、五分五分。

五分五分と言えば、
池波正太郎先生は同書の中でこういう。

「(直木賞受賞となるかどうか)
いつも五分五分、入るかも知れないし
落ちるかもしれない、
その率は五分五分であると
僕はいつも思っているから。
戦争に出て行って戦死するかもしれない、
あるいは生き残って帰って来るかも
しれない、その率は五分五分なんだ。」
「男の作法」(池波正太郎、新潮文庫)

そういう五分五分の人生観だから
例えば何かの賞に落ちたからといって
特段、ガックリはしないと。

そして池波先生はこう言う。
「理屈というものでは絶対、
人間の世の中というのは渡れないんだ。
なぜかというと、人間そのものが
理論的に成立しているものじゃ
ないんだから。」
「男の作法」(池波正太郎、新潮文庫)

げだし名言。
凡そ40年前に書かれたものだが
いつの世の真実でもあると僕は思う。

自尊心や自己顕示欲、自己嫌悪。
自分勝手過ぎると火傷する。
さりとて自分を卑下し過ぎると
大切な機会を失し、
誰かの期待に応えられない。

自分をどう解釈するか。
物事、出来事と同様に、
その実、自分も「無」、無色透明。

いくら齢を重ねても、
常に程良く自分を信じ、諦めない。
僅かながらでも希望や理想を
ココロのポケットに携えていたい。
幾つになっても理想を追い続ける。
それを止める事は、誰にも出来ない。

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自分磨きは永遠のテーマ [BOOK]

多摩大学名誉教授の田坂広志氏は著書
「なぜ、我々はマネジメントの道を歩むのか」
(PHP新書)の中で、
 「上司は部下を知るのに3年かかる。
 部下は上司を知るのに3日で足りる」
を掲げ、マネジメントとは、
「心の修行」「人間学の王道」としている。

例えば、若手の部下の発言に
単に違和感を覚え腹を立てるのではなく、
彼・彼女の立場や目線で、その世界を捉える。
そして、彼らの解釈の背景を考える。

単に部下の言動に失望し、上司として
「高みに立って、人を裁く」のではなく、
自分の中にも、同様の要素があることに
気付くべきと同氏は論ずる。

部下は縁あって、一緒に仕事をする仲間。
互いに成長し合って良いのだと。

ビジネスの世界で沢山の苦労を
重ねてこられた同氏こその説得力が心に響く。

たとえ不器用で、もがきながらも、
懸命に自分の見解を示し、
成長しようと心掛けている上司の姿に、
部下は心動かし、この人について行こうと思う。
それこそが格好良い。というより素敵だ。

独の哲学者ショーペンハウアーは著書
「幸福について」(光文社古典新訳文庫)で、
人間の運命における差異の基礎を

①人格、品性、健康
②所有物、財産
③名誉名声、地位、人からの評価

として、①が最も尊く、かけがえのないこと、
真の幸福に帰結するとの趣旨を論じている。

確かに、①だけは無限に磨きあげられ、
人間力や人徳、凛々しさや心意気
という言葉にあるように最も頼もしく美しい。

②はある程度は必要だが、
それだけでは物欲主義で、人間味がなく、空しい。

③は最も移ろいやすく、儚いもの。
名声は忽ち過去となり、誰もが忘れ、
人の評価ほど気まぐれなものはなく、
その人の価値観や気分に
振り回される人生で良いとは思えない。

① は、自分の内面を磨くものであり、
時間がかかるどころか、永遠のテーマだ。
「成長」に年齢は関係ない。
だからこそ、それを追い続けた人生に、
自分だけの価値があり、生き切った実感があろう。

田坂氏のマネジメント論と重なる。

若手のうちはガムシャラに、
何事にも当たって砕けろ、と言う。 
確かに、ある程度は
「若さゆえ」「若気の至り」で許されることも。
でも、心のベクトルの誤りを
長年放っておいたために、
気付いたら中堅になっていて、心の癖、思い癖で、
ベクトル修正が出来なくなる人もいる。

若手のうちが大切だと僕は思う。
経験者はわかる、自戒と自省を込めて。

なかなか、直せません。
すみません。
でも自分の「成長」、諦めていません。

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梯子の段の語り部たちへ〜書棚から2 [BOOK]

狭小のわが家の、更に狭き自室の、
それにしては少し大き目の書棚。
この約30年間、わが愛読書が
入れ代わり立ち代わり
足されては引かれ、今に至る。

2列4段(計8ゾーン)のこの書棚、
不思議なもので、
愛読書たちを指を差して
カウントしようとは思わない。

わが家には各部屋に押し入れがなく
3階にあたる屋根裏に
3畳位の物置きの空間があるだけ。
2階の自室からその屋根裏に、
木製の梯子(はしご)を常時かけている。

今、この梯子(横木)の
下から4つの目までの段全てに、
書棚に収まりきらない本たち、
30冊程が平積みになっている。

気のせいか、彼らは
どこか不安げな風情である。

このままでは、買い続ければ
梯子全8段が本で埋まる。
さすれば、屋根裏へは登れない。
 
その結果、どうなるか。
屋根裏は、家中のガラクタたち、
あるいは季節もの(扇風機など)や
旅行鞄、ダンボール箱の
冬眠場所、寝グラになってる。

去る本より迎える本が多くなることで
ガラクタが家中に散乱することになる。
結果、家族からの反感、反発は必至。
とどのつまり、
僕自身の居場所がなくなる。

かくして、そろそろ、
本の新たな購入は控えねばと
自覚するのであった。

その理由はもうひとつある。
書棚の本たち一冊ごとと
十分に語り尽くしていないからだ。

全ページを一旦読んだだけで、
再読していないものが何冊もある。
要は、読み散らかしたままなのだ。

本の概要を完全に脳に刻むこと、
ましてや暗記など出来るはずはない。
でも、一冊ごととの出会いを
満喫できているか、
そのエキス食べ尽くしたか、
と問われれば、NOと言わざるを得ない。
それで良いのかと考えるのが
僕の悪い癖。

書店に並ぶ新刊本は、
どこか、過去の本たちが
語ってきた内容に似ている。
光の当て方やアプローチ、
表現を変えていただけで
概要や要点は同じ場合が多い。

特にエッセイやノウハウは
そろそろもう十分ではないかと。
わが狭小空間にお招きする余裕はない。
とは言え、大切なこと、
僕がもう既に知っていることを
「誰が語るか」が、重要でもある。

また、小説は、
ストーリーは過去作に似ていても
文章の調べや緊張感、哀愁、
エンタメ性やダイナミズムを
堪能出来るゆえ、無限に広がり
まだまだ道がある。

そして当然に、
一度読んだからではなく、
吉川英治の歴史小説、
山本周五郎や葉室麟の時代小説を
読み直すことにも大きな意味がある。
気づかなかった意味合いに
出会えることが多々あるからだ。
それは既に書棚にある
あらゆるジャンルの本にも当てはまる。

読み手の、その時の関心事や精神状態で
すくい上げる(記憶に残る)活字が
異なってくる。

住空間には限りがある。
持ち主の器以上に、
家は大きくならないと
誰かが言った。
(そんなこと、誰が言った??) 

やはり本はカウントし、
例えば限定200冊まで、と定めるべきか。
しかし、単行本と文庫本では
占有スペースが大きく異なる。

いずれにしても、
語り尽くしていない本たちとの
時間を大切に育むことにしよう。

今日は、梯子の横木で
心配そうな横顔の本のたちの居場所探し、
書棚への入れ替えをする日に。
どこかわくわくしながら、
彼らの定位置を探す。


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見栄と本音と〜書棚から1 [BOOK]

経営トップの方がこれまで
どんな本を読んできたかを紹介する
主要新聞等の常設のコーナーがある。

その御仁たちは、
彼らが長たる組織の事業特性に
合わせた本を選んでいるようにみえる。
というか、そうなのだろう。
例えば、生保会社の社長なら
生命保険の歴史とか人命に関わる本など。

僕は思う。
こうした偉大な方々の自宅の書棚には、
実際、どんな本が並んでいるのかと。
心から好きな本ってなんだろうかと。

対外的に紹介出来る選書基準は
以下のようなものではないかと考える。

①自分の携わる組織や業界に関する本
②若手に役立つだろうと思う本
③洋書や古典等、少し知的に映る本
④シリーズもの、大作など要根気の本
⑤さすが!と思わせる本
⑥ちょっと意外!と思わせる本

選んだ本によって人格や知識レベルが
測られてしまう懸念もあるのだろう。
ガッカリさせたくないという思いも。
それが悪いとは思わない。
ある意味、仕方ないこと。

本来、読書は自分のためのもの。
人に見せる為のものではない。
好きな本を気ままに、
自分に必要な本を真剣に
自分なりに読めば良いはず。

もう10年以上前に、会社のイントラに
役員たちのお気に入りの本を
紹介することになり、
僕はある役員(上司)に何を選ぶのか
訊いたところ、彼はこう言った
「池波正太郎とかじゃ駄目なんだろう?」
まだ司馬遼太郎なら大丈夫か、との意見。

彼は結局、梅原猛氏の著作を選んだ。
本当は彼が無類の北方謙三「水滸伝」好き
だと僕は知っている。

立場が上になるとつらいと拝察する。

自分の好みを晒せば良いだけではない。

その点、僕なんぞは、
北方謙三も山本周五郎も葉室麟も
原田マハも東野圭吾も、
大好きと大声で言える。
漫画は読みません。空想を楽しみたく。


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読み尽くす、活字を堪能するということ。 [BOOK]

今どき電車の中で
新聞を夢中で読む姿は
ダサいのか、時代遅れなのか。
まあ、ひと目はどうでも良いのだが、
そのひと目、僕の目で
昨夜、感じたこと。

帰路の電車で、
隣に座った高齢の方が
スポーツ新聞を熟読していた。
いや、読み耽っていた
という表現が相応しい。

白髪で70代後半くらい、
小柄で深い青のジャンパー姿。
櫛を通してない髪が少し乱れている。
東京駅から乗ってきて、
僕の隣へ座られた。

彼の持参品はスポーツ新聞のみ。
しかも、くちゃくちゃで、
誰かが読み込んだ後のものの様。
その御仁も新聞も、どこか
しわがれた感じ。

走り出す電車、微かに揺れながら
彼はその新聞を
くまなく読みあさっていく。
ページを捲るたびに
自分が読み易いA4くらいの大きさに
丁寧に折り畳み、皺を伸ばす。

僕はふと思った。
この御仁のように、隅から隅まで
新聞を読んだのは、何年前だろうかと。
まるで焼き魚を頂く際、
骨以外を残さないように
その恵みを堪能出来ているかと。
魚と料理人への礼を尽くすように。

伝えたい事実と雑感を
ねこそぎ拾い集める人がいる。
新聞記者と編集局なら、
彼の様子を見て
日々の努力と想いが報われたと
感涙するのではないか。
 
さしずめ、紙に刷り込まれた活字は
その日と今後の栄養素。
それを吸収した脳が
十分な栄養補給出来たと喜び勇ぶ。

今や電車の中吊り広告も
画面モニターに代わり、
見渡せばスマホ、スマホ、スマホ…。
デジタル化の進む車中に
しわがれた感じの見知らぬ御仁と
いつの日付かわからぬ新聞紙。
それを書いた記者と編んだ担当者、
皺だらけの紙面、畳まれたページ、
刷られた活字たち。

とてつもなく、かけがえのない
神々しい光景を間近で観た気がした。
これも恵みなり。

京浜東北線は、
時間を忘れかけていた僕を待つ横浜駅に
到着していた。


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途方もなく果てしなく〜舞台袖から [BOOK]

北京五輪で銀盤や白銀を舞う
アスリートの方々には頭が下がる。
試合当日の精神的な重圧と
本番直前の緊張感は、
白い霧の向こう、
途方もなく、果てしない。

先日番組「ボクらの時代」で、
俳優小日向文世さんは、
ドラマ(映像)と違って舞台(演劇)は、
やり直しがきかず、緊張すると仰った。
長年の経験があっても
出番前の緊張感、その重さが
辛いときがあると。
それを受け、やはり舞台演劇出身の
角野卓造さんは、それがあるから
やり終えたとき、感動があると添えた。

僕らビジネスパーソンも
何か大きなプレゼンや
初めての経験には緊張する。
だから大舞台に臨む役者さんの心境、
平常心の保ち方には大変興味があり、
僕らの日常の緊張解しに勉強になる。

名優山崎努さんは著書「俳優ノート」で、
一人芝居「ダミアン神父」のときの、
初演幕開き直前の極度の緊張感と、
その打開策を紡ぐ。

「開演の1分前、
突然猛烈な恐怖に襲われた。
これから2時間、自分一人で芝居を
背負わなければならない。
……足ががくがくする。
最初のセリフが思いだせない。

もうだめだ、公演は中止だ。
パニック。

十秒前、突然閃いた。

これは百年前に死んだ
ダミアン神父の話なのだ。
ダミアンが喋るのだ。
お喋りのダミアンが
まだ喋り足りなくて
今ここに降りてきて
喋りたがっているのだ。

よし、おまえに身体を貸そう。
勝手に何でも喋ってくれ。

パニックはぴたりと治まった。
照明が入り、
自分はウキウキした気分で
舞台に出た」

先月NHKの番組で美輪明宏さんは、
舞台での出番直前に
緊張しないのかと訊かれ、
全くそれはないと答えていた。
何故なら、舞台に立っているのは
自分ではなく、演じる役柄の人だからと。

この達観。ひとつの境地。
きっと大抵の役者さんは
どんなに稽古を積んでも
舞台袖では大変緊張するものだと思う。
勝手な推察だが、
それがあるからこそ、
最高の芝居が出来る人もいるのだろう。

日常、僕らが緊張するのは、
うまく見せたい、格好良く思われたい、
評価されたい、恥をかきたくない、
という思いがあるから。

であれば、
自分は、もともと大した者ではないから
淡々とこなして帰って来よう、
という肩の力を抜いた構えで、
自分に与えられた役柄、
○○部の係長、課長を演じるしかない。

もう一人の自分への温かな眼差し。
どこかの席から静かに応援して。

山崎努さんは同著でこう語る。
「演技をすること、芝居を作ることは
自分を知るための探索の旅をすること」
「役を生きることで、
自分という始末に負えない化けものの
正体を、その一部を発見すること。」
「効果を狙って安心するのではなく、
勇気を持って危険な冒険の旅に
出て行かなくてはならない」

生きていくことと同じ。
この含蓄。
途方もなく、果てしない。



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